旦那様の躾け方

 

 

「ふう」

今日も疲れた。仕事についてまだ間もないこともあり、日々蓄積されていく疲労をうまく解消できないでいる。

早く家に帰りたい。早く母さんの笑顔が見たい。

そう頭の中で言葉にすると誰に知られたわけでもないのになんだか恥ずかしくて、…別にマザコンじゃないけど、と言い訳がましく思った。

そして、これじゃ父さんのこと言えないな、とも。

 

 

こうして父親と同じ業界に身を置いてみると、その凄さを身に染みて感じる。

その凄すぎる父のおかげで新人なのにやけに気にかけてもらえる一方、七光り、などと陰口もたたかれているわけだが。

まあ陰口など気にしたところで仕方ないし、実力で認めさせていくしかない。認めさせてみせる、と逆に燃えていたりする。

こういうところ、多分父さんに似てるんだろうな。

 

 

父親のことを凄い人なんだ、と昔から漠然と分かっていたが、スクリーンの中の人物と家での様子をどうしても結び付けられなくて、曖昧に凄いとしか思っていなかった。

だからこそ、こうして父親の凄さを知った今、より強く母親の凄さを感じている。

だってそうだろう?

業界では父は『NGを出さない』『酒や女に溺れない』『体調管理ができている』『恋愛を演じさせれば右に出るものはいない』などと誉めそやされているが、それは全て母の力によるものなのだから。

 

『NGを出さない』というのは、NGを出すとより帰りが遅くなるからだ。なんとしても早く母の待つ家に帰りたいと思っているからこそ、驚異的なまでの集中力でNGを出さないのだ。

父と共演した人も同時にNGが少なくなるという。まあ当然だ。あんな般若のような顔で睨まれ、無言の圧力をかけられたら、そりゃあ新人なんかは震え上がるだろうさ。

全く、自分が大物俳優と呼ばれていることをいい加減自覚して、多少の心のゆとりを持って欲しいものだと思う。

 

『酒や女に溺れない』も然り。

酒に溺れるほど酒宴に長く居たいと思っていない、とりあえず白けさせない程度には盛り上がっているが、そのハイテンションな状態の頭の中でも考えているのは母のことだけだ。

一刻も早く母に会いたいとかキスしたいとか抱きたいとか、父のあの溶けた脳ミソはいくつになってもそんなことしか考えていないに違いない。

女には溺れるわけがない。母以外の女には。…母には溺れているが。溺れすぎて溺死寸前だろうと思うが。

 

『体調管理』。これも母がやっている。なんせ長期ロケで家を空けるとき以外は、全て母が弁当を作っているのだから。しかも弁当を忘れると母が届けるもんだから、しょっちゅう忘れようとするくらいだ。

まあ、食生活はちゃんとしてるがその分家にいる時は睡眠時間は短いみたいだが…。なぜかは、察して欲しい。長期ロケに行ってる時は「することねーから早く寝る」などと言っているらしい。

おいおい、そろそろ年を考えろよ。全く、呆れて物も言えないとはこのことだ。

 

『恋愛を演じさせれば右に出るものはいない』。そりゃあそうだ。

いまだにおはようといってきますとお帰りのキスは欠かさないし(どう見ても父親が恥ずかしがる母親に無理やりやっているように見えるが)、往来だろうと手を繋ぐのは当たり前、抱きつくキスするやりたい放題なのだから。

つまりまだまだ恋愛中なわけ。いつまでも夫婦ラブラブ過ぎて、俺たち子どもは困ってんだ。

 

 

ちょっと、いやかなりうっとうしいんじゃないかと思う父の愛。

でもそれに対して困ったり恥ずかしがったりはするものの決して嫌な顔はしないから、やはり母も父のことを愛しているのだろう。

…じゃなきゃあの行き過ぎた感がビシバシ感じられる愛には耐えられない。

しかももとは父はかなり恋愛には淡白だったというのだから驚きだ。到底信じられない。

女は使い捨て、一番大事なものは仕事の酷い男だったけど、あの頃の方がまだよかった…と飲んでくだを巻きながら涙ながらに語ったのは、長いこと父のマネージャーをやっていた女性だそうだ。

今は結婚して穏やかな生活を送っているというが、父に振り回されていた頃はもう胃もお肌もボロボロで、実は10円ハゲもできていたのよと、母が申し訳なさそうな顔で言っていた。

哀れ、としか言いようがない。

 

働き始めてから、そんな淡白だった父をこんな風にしてしまった母はやはり凄い人なのだと思い知らされた。

母は綺麗でとてもかわいらしい人だと思う。ふわふわとした雰囲気やいくつになっても素直で優しい性格は、家族だけでなく古い友人にも愛されているようだ。

けれどそれは身内の欲目が多分に含まれており、一般的には中の上、よく言って上の下くらいだろう。

そんな母が、贔屓目抜きに見ても上の上、言う人に言わせれば特上(俺はさすがに身内を特上とは言えない)の父を正に骨抜きにしてしまったわけだ。

…本当に、凄い人だ。

 

 

さて、仕事も全部終わったことだし、そろそろ家に帰るか。

お前も早く結婚して家出ろよ、なんて笑いながら、でも本気で言ってる父の姿を思い出す。

父さんにとっては残念だろうけど、まだそんな予定は無いんだよね。

父さんと母さんが結婚した年齢だってまだ先だし、そんな焦って探してもね。

俺の理想、実は母さんだから、なかなかいないんだよねー。…あれ、やっぱマザコン?

まあいいや、母さんなら。

あーあ、俺が母さんの子どもじゃなきゃ人妻だろうと年の差だろうと気にしないんだけどね。

 

そんな、父が聞いたら青褪めて、それから烈火のごとく怒りそうなことを考えながら、俺は下りのエレベーターに乗り込んだ。

 

 

(07.01.29)

 

 

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