不毛だ。俺も彼女も限りなく不毛だ。
でも諦められない、諦められそうにない。
それは結局、好き、だからなんだろう。

 

水面の月

 

こぽこぽと、静かな部屋に小さく音が響く。
真っ暗な部屋の中で、たった2匹の小さな熱帯魚が泳ぐ水槽だけがぼんやりと光っている。けれど部屋の電気をつけたとたんに、その淡い光は紛れてしまってただの水槽になった。
奥さんも、まして恋人もいない俺の話し相手は、最近専らこの小さな熱帯魚になってしまった。
上着を脱いで皺になるのも構わずにソファーの背に放り投げ、水槽の隣の棚から少し湿気た乾燥の餌をとりだしてぱらぱらと水面に落とす。
たった2匹の熱帯魚は、今日も水槽の端と端を泳いでいた。

 

俺が彼女を見かけたのは、本当に偶然だった。
ごく稀に撮影がスムーズに行って予定より早く終わり、少し、自由時間ができる時がある。
あれもそういう時だった。とは言っても家に帰ってゆっくりするような時間はあるはずもなく、俺は現場近くでぶらぶらすることにした。
いつも行くショップは気に入った服がなかった。冬にさしかかっている季節柄、外でゆっくりしたい気分でもない。だからどこか喫茶店に入ることにしたのだが、ホスト体験記での同僚の一人に教えてもらった喫茶店に立ち寄ることにしたのも、ただの気まぐれだった。
からん、と軽快な音を立てて開いた扉の向こうの店内に一歩入ると、薄い膜を通り抜けて違う世界に来たかのようだった。それはもちろん温度差のせいもあっただろうし、それからその店自体のゆっくりとした独特な空気のせいもあったのかもしれない。
ぐるり と、見渡すとはいってもそれほどの広さはないこじんまりとした店内を見ると、昼を過ぎ客の姿はまばらで。それも1人で来ている客ばかりで皆一様に本を開いたり、珈琲を片手に書類を見たりしている。ほ、と俺の肩から力が抜けた。
そのとき
「いらっしゃいませ」
入り口に立つ俺にそう声をかけてきた店員を見て「あ」と思った。

「作上明里」だった。

あの番組が終わって、もう半年以上になる。彼女はさほど頻繁に店に来る客でもなかったし、特に彼女と親しいというわけでもなかったから、終了以来会うこともなかった。地味で芸能人嫌いな子。それが俺の作上明里に対する認識だった。

彼女は一瞬大きな目をさらに大きくして、それから「お久しぶりです、九神さん」と笑った。

 

マスターが淹れる珈琲はおいしかったし、俺を特別扱いしない彼女の対応も心地よい。俺はそれ以来その店が気に入って、時々訪れるようになった。
そうするうちに俺はいつの間にか、彼女ばかり見ていることに気が付いた。ゆっくりと自分の中で育つ想いは優しくて、暖かくて。俺の、初めてだった。
次第に柔らかくなる彼女の笑顔は俺を優しくさせた。

けれど俺が彼女を見つめれば見つめるほどに。
俺が彼女を追ってしまうように、彼女の視線の先に一体誰がいるのか気付くのに時間はかからなかった。
そしてその相手が、彼女を見ていないことに気付くのにも。

 

きっとこの水槽の中の熱帯魚のように。
君の世界は彼女とあいつだけで。
俺の世界は俺と君だけだ。

不毛だ。
俺の恋も彼女の恋も、どこまでもまっすぐ伸びていて、交わることがない。
でももしかしていつかって、そう思ってしまうのは、結局好きだからなんだ。
とんでもなく不毛だって、そう思っていても彼女を諦められないのは、結局、彼女のことが好きで、好きで好きで好きでどうしようもないからなんだ。

 

ぽたり。
波紋が広がる。

水面が揺れて、月が滲んだ。

 

(08.07.31)

 

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