※注意

このお話は炎樹バッドED後、もしも明里が妊娠していたら…という設定で書いています。
悲しいお話ではないつもりですが、幸せなお話とも言い難いです。
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きれいなひと

 

彼女には父親がいませんでした。
いえ、正確には父親のことを知りませんでした。
顔も、名前も知りませんでした。それどころか、生きているのか死んでいるのかすら知りませんでした。

けれど彼女はそのことを不幸だと思ったことはありませんでした。
なぜなら彼女には、少し頑固なおじいさんと、優しい笑顔のおばあさんと、彼女に甘いおじさんと、それからとびきり素敵な母親がいましたから。
父兄参観日には大好きなおじさんが来てくれましたし、母親は働いていましたが、彼女のお弁当を作り忘れたことはありませんでした。
かわいい髪形も、色とりどりのお弁当も、手作りの服やセーターも、彼女の自慢だったのです。

 

そうして1年経ち2年経ち、長い時が過ぎていき、彼女は美しく成長しました。
彼女は恋をして、愛を知りました。
母はどんな風に恋をしたのだろう。私達のように時には喧嘩したり口もきかなくなったり、でもほとんどは幸せな時を過ごしたのだろうか。そんなことを考えたりもしました。
豊かな黒髪は母親譲りでしたが、顔はあまり似ていませんでしたから、きっと父親は美しい人だったのだろうと彼女は思いました。
色々考えてみても結局彼女は、母はこんなに素晴らしい人ですからとびきり素敵な人と恋をしたのに違いないと、確信していました。

彼女の結婚式はひっそりと行われました。たくさんの参列者など彼女には必要なかったのです。
テレビで見る結婚式のように、大きな花束も多くの言葉も、素敵な演出もありませんでしたが、それでもとても幸せな結婚式でした。
それに結婚式のあと、母親は彼女にこう言ってくれたのです。
あなたも幸せになるのよ、と。

しばらくして彼女も母親になりました。
子どもを育てることは、多くは彼女にとって幸せなことでしたが、もちろん幸せなことばかりではありませんでした。
苦しいことも大変なこともあるのだと、彼女は知りました。
まして母は女手一つでそれをやってのけたのです。
それなのに彼女は、母が泣いているところを見たことがありませんでした。
母はいつでも笑顔で彼女のことを育ててくれたのです。
そしていつでも、彼女に大きな愛情と幸せをくれたのです。
彼女は感謝しました。母に、そして顔も名前も知らない父にも。

けれどその後、彼女はたった一度だけ、母の涙を見たのです。

それはとある俳優の訃報のニュースの時でした。生涯独身だった彼は大きな家で親しい友人達に見守られながら静かに息を引き取ったのだそうです。
そのニュースが読み上げられた時、母の頬を一筋涙が零れ落ちて行ったのを彼女は視界の端にとらえたように思いました。
けれど彼女にはそれを確かめるすべはありませんでした。
なぜなら彼女がひとつまばたきをする間に、見えたと思った母の涙はすっかり跡形もなく消えてしまっていたからです。
もしかしたら、夜10時という時間でしたからあくびをしたのかもしれませんし、戦争で人が大勢傷ついているというひとつ前のニュースに心を痛めたのかもしれません。
それはもう今となっては分からないことですけれども。

 

そうしてまた時が過ぎ、彼女の子どもたちも幸せな結婚をし、母はひいおばあさんと呼ばれるようになりました。
母は年老いていって、たくさんの孫やひ孫に囲まれながらやがて穏やかに息を引き取りました。
結局、彼女の父のことは何一つ語らないままに。
けれど彼女にとっては母親が幸せな顔で亡くなることができたことのほうが大切でしたから、もうそんなことはどうでもよかったのです。
だから母の古い友人がお別れの時、亡くなった母の胸にそっと1枚の写真を持たせたことを知っていましたが、それを見ることはしませんでした。

 

彼女は父親のことを何一つ知りませんでした。
彼女の父は自分に娘がいたことすら、知ることはありませんでした。

けれど
彼女は母を愛していて。母も彼女を愛していて。それからきっと母と父は愛し合っていて。
それだけで、よかったのです。彼女にはそれで十分だったのです。

 

(08.05.06)



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