「チヒロ、6番」
身体が、僅かに震えた。
ただひとつだけの
店長である水無月さんに声をかけられて、6番のテーブルを見遣ると初期の頃から永久指名してくれているお得意さんの姿が見えた。
彼女は30を少し超えたくらいの人で、優しい表情と穏やかな物腰を持っている人だった。
その人を見て少しほっとする。
あの人は長い時間いる人じゃないし、自分のことを弟のような感じでかわいがってくれている人だと知っていたから。
「あ…、はい。あの…明里さん、ちょっといって、くる。」
「あ、うん。頑張ってね。」
そう言ってにこりと笑う彼女によりいっそうの焦りを感じる。
最近彼女は綺麗になったと思う。
ただ自分の惚れた欲目からだろうか。
自分の気持ちを自覚し始めてから、もう気持ちが膨らみすぎてどうしようもない。
制御できない強い感情がチヒロを支配しようとしていた。
「あの…、戻ってくるまで、いて。…早く、戻る…から。」
明里の側に少しの間だけでもいられないことに、チヒロは大きな不安を感じていた。
ヘルプが入って、自分の居ないところで彼女が他の男と話すことに苛立ちを感じながらも、それでも彼女に帰って欲しくないと思う。
「うん。いってらっしゃい。」
後ろ髪を引かれながらも立ち上がり、6番のテーブルに向かう。
そっと後ろを振り返ると最近入ったばかりの男がヘルプとして明里の居るテーブルにやってきているのが見えた。
できるだけ早く…と思いながらチヒロはテーブルへ向かう足を速めた。
30分が経った頃、明里は最近チヒロと過ごす時間が短くなってしまっていることを寂しく思いながらもヘルプに入っている新人とも仲良くなり、最近のドラマの話に花を咲かせていた。
「お、なになに〜。俺が出てるドラマの話してんじゃん。」
「く、九神さん!?」
突然現れて明里の隣にどかっと腰を下ろしたのは今話していたドラマの主人公を務める九神炎樹だった。
「あ、俺毎回見てますよ!九神さんのドラマ!。」
ヘルプの男の子が興奮した様子で炎樹に話しかける。
「おー、サンキュな!なかなかおもしれーだろ?」
「はい!特に前回の九神さんの演技は…」
と二人で明里を挟んでドラマの話題で盛り上がっている。
とりあえず話題に少し乗り遅れた明里は、重要な疑問を投げかけておく。
「九神さん、なんでここに?体験記の撮影中じゃないんですか?」
「ん?ああ、さっき終わったんだよ。撮影。
あー、今日もつっかれたー。」
言いながら首を左右に傾けて凝り固まった筋を伸ばしている。
「お疲れ様です。でもなんでこのテーブルに?」
「まあ、たまには俺に興味ないやつと話してみるのも気楽でいいかなと思ってよ。
あ、お前交代するから行っていいぜ。」
そう言って炎樹がひらひらと手を振ると、どうやら炎樹のファンであるらしい男の子は少し残念そうにしながら向こうへ行ってしまった。
「はあ…。私と話しても九神さんにとって面白いことなんて無いと思うんですけど…。
それにここに居て大丈夫なんですか?」
「ああ、このテーブル一番奥にあって他から見えにくいから大丈夫だって。
それに…俺にとってお前と話すことには大きな意味があるんだぜ。」
長い足を組んでその上に頬杖を付いて、明里の顔を覗き込む。
近くで見るとやはり炎樹の顔は整っていて。
いつもの明るい彼とは違う、真剣な表情で見つめられると明里はドクリと心臓が音を立てるのを感じた。
「……え?」
二人の間に沈黙が落ちる。
まるで周りの喧騒から空間が切り取られたような錯覚に陥る。
明里の持っているグラスの中の氷が溶けてカラリと音を立てて。それだけが明里の耳にやけに響いた。
「…離れて…!」
はっと明里が顔を上げると、チヒロが立っていた。
その雰囲気はいつもの穏やかな彼とは違っていて、明里は少し動揺する。
「チヒロさん…?あの、どうしたの?あのお客さんは?」
チヒロはそれには答えず、炎樹を睨みつける。
炎樹は短く息をついて、組んでいた足を解く。
「おっかねーなー。ちょっと話してただけだろ。」
先ほどまでの真剣な様子は鳴りを潜め、いつもの炎樹に戻っている。
「んじゃ、またな。」
明里に笑いかけて立ち上がり、チヒロの横を抜けて去っていく。
炎樹の後姿を見送りながら、
『…まだ誰のもんでもねーんだぜ。俺も狙ってっから。』
炎樹が去り際にチヒロだけに聞こえるように呟いた言葉を反芻する。
彼女が誰のものでもないなんてそんなことは分かっている。
でもそれに限界を感じている自分が居ることも。
もう長くは待てないだろう。
「チヒロさん?」
微動だにしない自分を心配してか、明里が立っているチヒロの側に来て心配げな様子で覗き込んでくる。
ああ、そんな表情を他の男には決して見せないで欲しい。
他のすべてを失っても、この人だけは自分のものにしたい。
そんな狂気が心を駆け巡る。
ああ、どうか共に居て欲しい。
あなたは自分が本当に欲しいと思った、唯一の人だから。