「今行きます。待っていてね…」
そう小さく呟いて、すぅ、と息を吸って閉じられた目蓋は、もう二度と開くことはなかった。
風舞う丘のその先で
おばあちゃんの一日は、おじいちゃんへのおはよう、に始まって、おやすみなさい、で終わった。
おじいちゃん…正確には、おじいちゃんの位牌に向かって。
昼にはお墓にも行って、おやすみの前には、位牌に向かって毎日あったことを語りかける。
それを1日も欠かしたことはない。
おばあちゃん自身もおじいちゃんが死んだすぐ後に体を悪くして、起き上がるのがつらい日だってあるのに。
おばあちゃんの看病のために一緒に住んでいる私に「ごめんね」と言いながら、仏壇に連れて行ってくれと頼む。
…そんなおばあちゃんを見ながら、私は少し羨ましいと思っていた。
おばあちゃんの家には、子どもの頃よく遊びに行っていた。
弟と一緒に靴をそろえるのも忘れて家に駆け込んだっけ。それくらい、おじいちゃんとおばあちゃんに懐いていた。
忙しい両親に代わって、私たちの面倒を見てくれたのはおじいちゃんとおばあちゃんだったから。
私たちが幼い頃、おじいちゃんはまだ現役の俳優として活動していて家を空けることも多かったけれど。
おじいちゃんが留守の時だけ、おばあちゃんと一緒に寝た。
いつも一緒に寝たいと駄々をこねる私たちに、おばあちゃんは「ごめんなさいね。おじいさん、拗ねちゃうから。」と申し訳なさそうに、でもどこか嬉しそうな表情で言ったことを覚えている。
おばあちゃんは料理も裁縫も上手で、私も可愛い金魚の柄の浴衣を縫ってもらった。
友達が素敵だねって言ってたおじいちゃんの洋服も、おばあちゃんが縫ってたらしいと後で聞いた。
初めて行った縁日も、おじいちゃんとおばあちゃんと一緒だった。それから弟も。
真新しい紺色に赤の金魚の浴衣が嬉しくて、同じようにおばあちゃんに縫ってもらった浴衣を着ている小さな弟の手を引いてはしゃいでいた私たちの後ろで、おじいちゃんとおばあちゃんがそっと手を繋いでいることを見つけた。
今は、おばあちゃんがおじいちゃんの前でだけいくつになっても女だったんだと分かるけれど。小さな私は、なんだかドキドキしたっけ。
おじいちゃんとおばあちゃんは本当に仲が良かった。まるでドラマみたい、と思ったこともある。
どちらかと言うとおじいちゃんの方がよりおばあちゃんを愛しているんだとお父さんが昔呆れたように言っていた。
二人が出会ったときにはおじいちゃんはもうとても有名な俳優で、周りにたくさん綺麗な女の人がいたはずなのに、どうしておばあちゃんのことを好きになったんだろう。
おばあちゃんに聞いてみたら「どうしてでしょうね。私もとても不思議なのよ。」と笑って言った。
結局謎は解けなかったけれど、でもおばあちゃんのことを大好きなおじいちゃんを見ていたら、そんなことどうでもいいやと思えた。
こんなにも好き合っているのだから、おじいちゃんとおばあちゃんが愛し合うのはきっと運命だったのだと。
ねえおばあちゃん。
私ね、ずっとおばあちゃんに憧れてたんだよ。
私もそんな風に誰かを、自分ではどうしようもないくらいに愛してみたいって。そして心から愛されてみたいって。
そうしたらおばあちゃんは、必ずできるわって言ってくれたよね。
おじいさんと私の孫なんだからって。
私は幼かったけれど、とても嬉しかったの。
その夢はこうして今叶ったけれど、私の目標はずっとずっとおじいちゃんとおばあちゃんだから。
『天に在りては 願わくば 比翼の鳥となり 地に在りては 願わくば 連理の枝とならんことを』
おばあちゃんはあの時目蓋を閉じた後、天にいるおじいちゃんに会いに行ったんだよね?
教会の上を飛ぶ、二羽の鳥を見る。
結婚式で、人が死んだときのことを思い出すなんておかしいかな?
でも、おじいちゃんとおばあちゃんの死は、終わりじゃなかったと思うから。
次への始まりだったと、そう思うから。
今も、次の世もその次の世も。
おじいちゃんとおばあちゃんのように、私もこの人と歩いていくから。
(07.01.29)