なんだか頭が痛いなあ、と台所に入ってくるなり呟いた父親に対して、真理子はこの薬でも飲んどけばーといつも飲んでいる生理痛の薬を放った。
そんな
ぞんざいな真理子の態度を父は咎めることもなく、ありがとう、とにこやかに笑いかけた。
それは、なんてことのないいつもの朝の風景のはずだった。



天国のポスト



父の傍に寄ると、シューシューという音が耳についた。
それは今、父の命を繋いでいる、人工呼吸器の放つ音だった。
いや父の呼吸音というのが正しいのだろうか。
部屋の外では、看護師がモニターを見ながら父の状態の記録をしている。
ずらりと並んだベッドには、それぞれ無数の管に繋がれた人間が寝かされている。

今、父はその中の一人だった。





真理子はその日いつも通り仕事に出て、いつものように入力作業をしていた。
つまらない、とてもつまらない。そう思いながら鬱々とした気分で仕事をするのもいつものことだ。
この事務仕事は父が見つけてきたものだ。
大学を卒業する段階になっても特にやりたいことなどなく、なんとなく周りに流されるようにして就職活動をしていた真理子だったがそんな態度で就職氷河期を乗り切れるはずもなく、内定は一つももらえていなかった。
だから父親が持ってきた近所の小さな印刷工場の事務仕事も、とりあえずまともな仕事が見つかるまで、という気持ちで始めたのだ。
しかしこの職場で働く人間は典型的な田舎の人間で、皆顔見知りで、いつも仕事の合間にはどこそこの誰が結婚しただのあそこの息子はどこの大学に通っているだのという規模の小さい噂話をしている。
せめてこの田舎を出たかった真理子にとっては、ここは嫌気がさすほどに小さな世界だった。
そして今日も、真理子ちゃんはそろそろ結婚しないの、だのそろそろ相手見つけなきゃだめよ〜だの余計なおせっかいに苦笑いで対応していたところだったので、丁度かかってきたという電話に救いの手とばかりに飛びついた。
ホッとしながら出てみれば、それは母からの電話だった。
いつも穏やかな母らしくない動転した様子の母の話は要領を得ない。けれどその内容はこうだった。
お父さんが、倒れた、と。

父は職場で倒れ、病院に運ばれた。
検査の結果、医師はとても厳しい状況です、と言ったそうだ。
父の病名は…脳内出血だった。



集中治療室に入った父の頭は、すっかり剃られてしまってそこから管が出ている。その中を真っ赤な血が流れ落ちていた。
何本もの点滴が、首や腕に繋がっている。
看護師が、立ちすくむ真理子と母の横をすり抜けてまた新たな点滴をつけた。
頭元におかれたモニターには無数の数字と波形が表示されている。
医療知識のない真理子には全く分からない数字ばかりだ。

なんだろう、これは。
すっかり腫れあがっている父の顔は、真理子の記憶の中にある父の顔と一致しない。
母が父の手を握り、震える声で「あなた」と呼び掛けたが、父と思われるその人は目を開けることもなくただシューシューという音を立てながら眠っていた。
真理子は、それ以上近くに寄ることさえできなかった。



真理子はずっと優柔不断な父が嫌いだった。
家族でレストランに行っても最後までメニューを離せない父。
着ている服はいつも母の見立てだ。時々ズボンと靴が合っていなくて、真理子は隣を歩くのが恥ずかしいといつしか一緒に出かけることもしなくなっていた。
反抗期はほとんど目も合わさなかった気がする。
仕事もいつまでも係長で出世とは縁がなかった。友達の父親はきりりとしたスーツ姿で出かけていくのに対し、父はいつも曲ったネクタイを母に直してもらいながら笑っていた。
そんな父が情けなくて、きっと自分はこんな人とは結婚しない、と真理子は心に誓っていた。



何度見舞いに行っても、父の病状は変わらない。
いつも目を閉じたまま、母の声にも全く反応しない。
母に引きずられるようにして真理子はついていっていたが、未だ一度も父に触れることはできなかった。
この数日ですっかり痩せこけた父の腕は、まるで頼りなくて恐ろしくて握ることなどできない。
父の傍で腕をさすったり、足をマッサージしたりする母を見ながら、真理子は隣の患者と父の様子を比べたりする。
時折、ビービービーとけたたましい音がフロアに鳴り響いて、大勢の看護師や医師が走っていく。
一気に慌ただしくなる様子を見て、ああ、あそこの人危ないのかもしれない、と真理子でもわかった。
父のところでは、そんなことはまだ起こっていない。
相変わらずモニターに表示されている数字はよくわからないが、もっと苦しそうな様子の隣の患者よりもいい数字のような気がする。
それだけで真理子はどこかほっとしていた。





「親父さんの容体、どうなの」
久々に会った健二は、荒々しく真理子の体を貪った後、そう尋ねてきた。
「変わらないわ。全然目を覚まさないし、色んな管がついてて見るのなんだか苦しいし」
シャワーを浴びて乾かした髪に櫛を通しながら真理子は答えた。
健二とは大学時代から付き合っている。
サークルで知り合った先輩で、少し危険な香りがするところに惹かれて付き合い始めた。
仕事がよくできて、顔も体もいい。父とは全く違うタイプだった。
けれど女関係も父とは違って華やかだった。
今までに対決した女は2人や3人ではない。真理子のことを一番だと言っているがそれも本心かどうか怪しいものだ。
そう思っていても別れていないのは、いつも残るのが自分だからだ。友人たちに何度も諭されながらも結局ずるずると関係を続けているままだった。

「行ってもどうせ変わらないし、お前看病してるわけでもないんだろ。だったらもっと俺との時間作ってくれよ」
そう言う健二の手はすでに真理子の体を再びまさぐっている。
「そういうわけにもいかないのよ。…今日はもう気分じゃないから帰る」
あんまり行きたくないと思っていたのは真理子も同じだった。けれどそれを他人に言われると、無性に腹が立って仕方がなかった。健二には他人を思いやる気持ちというのが欠けている。そんなこと、真理子に言えた義理ではなかったが、ひどく無神経なところがあった。
手を払って立ち上がり、巻いていたバスタオルを取ってベッドの周りの衣服を拾い集める。
その様子を健二は不機嫌な様子を隠そうともせず眺めて言った。
「お前さー、彼氏をこんな放っといてどうなっても知らねえぞ」
いけしゃあしゃあとそんなことを言う健二に、真理子の堪忍袋の尾はとうとう切れてしまった。
「もう手を出してるくせによく言えるわね。好きにしたらいいわよ。さよなら」
バスルームで拾ったどの女のものかもわからないブレスレットを健二の顔面目がけて投げつけて、真理子はパンプスの踵を踏みつぶしながら扉を閉めた。





それから、1週間が過ぎたころ、真夜中に呼び出しを受けた。
病院からだった。
…父が、いよいよ危ないらしかった。



シューシューと初めの頃あれほど耳についた音は、今は随分と弱々しく聞こえた。
モニターの数値は、今までに見たことのない低い値になっている。
父の顔色は既に土気色になっていた。

母が父の傍により、いつものように腕をさすりながら「お父さん、よく頑張ったね」と涙を流しながら言った。
母は父が入院してから泣いてばかりだ。干からびるんじゃないかと思ったほどに。
対して真理子は一度も泣いていなかった。こうなってしまった父の姿を前にしても、まだ実感がわかなかったのだ。
「どうぞ近くに行ってあげてください」
そう看護師が声をかけてきた。
よく父の担当をしていた人だった。髪を洗ったり、足を拭いたり、オムツを替えたり。実の娘よりもずっと、この人のほうが父に優しかった。
その言葉に押されるように、真理子はふらふらとした足取りで父に近づいた。
そっと手を握ると、その手はまるで骸骨のように骨ばっていて、氷のように冷たかった。

昔、真理子が男の子たちにいじめられると、公園まで走ってきて追い払ってくれた父。いつも泣きじゃくる真理子をおぶって家まで帰ってくれた。
あの時大きいと思っていた父の体は、すっかり小さくなってしまっている。
うまく魚の骨をとれなかった真理子に代わって、綺麗に身をとってくれた器用な手はもう箸を握ることはない。
眼鏡の奥でいつも優しく細められていた目は、すっかり落ちくぼんでしまっている。
記憶の中にある父とはすっかり変った姿が、そこにはあった。

けれど真理子も、もう認めないわけにはいかなかった。
これは父だ。今にも命の灯が消えようとしているのは、まぎれもなく自分の父なのだ。

ぎゅう、と力を入れて手を握った。
それだけで折れてしまいそうな気がしたけれど、何かにすがるように、繋ぎとめるかのように、父の手を強く握った。
胸の奥に何か大きな塊がつかえている。
喉は焼けるように熱い。
何か、何かと思っても、真理子の口からはひゅうひゅうと空気が漏れるばかりで一言も言葉は出てきてくれなかった。



ビービービーとアラームが鳴り響いて、他の部屋から医師と看護師が集まってくる気配がした。
ああ、とうとう父の番が来たんだ。真理子はそう思った。

今しかない、いいや、本当はもう遅すぎる。そう分かっていたけれど、真理子はひりひりと焼けつく喉からようやく言葉を絞り出した。



「おとうさん…」



そう言うのが精いっぱいだった。
父の痩せ細った手が、その時動いたような気がしたのはきっと真理子の気のせいなんだろう。
なぜなら真理子が顔をあげたとき、モニターの波形は全て綺麗にまっすぐになっていたのだから。
言葉と共に零れ落ちた涙が、土気色の腕を濡らした。





ジージーと蝉が鳴いている。
父の墓に手を合わせ、報告し終えて真理子は顔をあげた。
この日向にいるのはほんのわずかな間だったが、もう汗が噴き出している。膝に抱えていた黒いハンドバッグから、折り目正しくアイロンを当ててあるハンカチを取り出して額に滲んだ汗を拭いた。
「今日はすごく暑いね」
そう言いながら袖で汗をぬぐおうとしている隣の男の様子を見て、真理子は苦笑してハンカチを差し出した。
「あ、ありがとう」
そう言って少し情けない表情で笑う彼は、この秋に結婚する予定の真理子の婚約者だ。
健二とあの日別れた後、彼からは一度も連絡がなかった。
それは予想していたことだったが、確かに真理子の心を傷つけた。
父を亡くし、恋人を失って沈んでいた真理子を癒してくれたのは、母と、同じ職場で働くこの人だった。
それまでずっと、優しいばかりで特に気にも留めていなかった彼だったが、本当に真理子によくしてくれた。
健二といた時には感じたことのなかった安らぎと穏やかなときめきを彼にもらったのだ。
彼を母に紹介したとき、母は「お父さんに少し似ているわね」と言って笑った。



彼と二人歩きながら、目前に迫った結婚式の話をする。
ああ、これがもっと早かったなら、父に晴れ姿を見せられたのに。
「お父さん、真理子の花嫁姿をとても楽しみにしていたのよ。」と母に聞いて、また少し泣いてしまった。
結婚式が終わったら、父に手紙を書こう。式の写真を印刷したやつ。
そう、あの時言えなかった言葉も添えて。


お父さん、ありがとう。と。




(08.10.21)



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