人生でそう何度も巡ってこない、その後の人生を大きく変えてしまう運命の分かれ道があったとしたら
あの日は間違いなくそれであったと、俺は思う。
片道切符 九
イベント前というのは、バラエティー番組にとっては書入れ時である。特にクリスマスから年始にかけては本当に忙しい。俺は俳優であってタレントではないつもりだから、休暇を取って海外にでも…ということも可能だったが、どうせ一緒に行くやつなんかいやしないし、と思って仕事を入れたのがそもそもの間違いだった。そう気づいた時には後の祭り、だったわけだが。
「九神さんはクリスマスの予定、もちろん入ってるんでしょうねー。誰と一緒に過ごす予定なんですか?」
いやらしい笑顔を浮かべながら聞いてくる司会者。聞きたいことが見え透いていて、怒りを通り越して呆れる。しかもこの番組にはあいつも出ていて、視聴率を狙っているのが明らかだ。
「いえ、残念ながら独りきりなんですよ、というか仕事ですって。この時期、お互い忙しい時期じゃないっすか。」
「ははは、まあそうだよね。でも九神さんなら一緒に過ごす相手くらいいるでしょー。」
そう言って目の前の司会者は、目線をさり気なくあいつの方へすべらせた。
……ああ、苛々する。どいつもこいつもしつこいんだよ。けれど、ここで無闇に反応しては逆効果だということも分かっている。こういうことは噂だからこそいいのだ。実際に関係があるということがあからさまに分かれば、知名度はともかく人気にとってはマイナスになる。
「今のとこ、全然予定無いんですよ、ホント。誰か慰めてくれる人がいればいいんすけどねー。」
そう答えた瞬間、『…あ、まずい』と思った。嘘をついた時の、癖。瞬きが少し早くなる、……明里だけが知っている、俺の癖。
・・・
『ふふ、要さん、それ嘘でしょ。』
『え。…ヤベ、ばれた?っくしょー、絶対ばれねぇと思ってたんだけどな。…何で分かった?』
『あ、気づいてないんですか?…要さんね、嘘つく時とか焦ってる時、ほんの少しだけ瞬きが早くなるんですよ。』
『……マジかよ。全っ然知らなかった…。』
『じゃあ私が第一発見者ですね。』
『第一発見者って…。あーあ、俺これからは明里に嘘つけねぇなあ。』
『なあに、要さん。私に嘘つくつもりだったんですか?
・・・
明里が、もしこの番組を見ていたら、勘違いするかもしれない。『本当はサオリと約束があるのに、無いなんて嘘ついてるのね』って。……そうじゃない、違うんだ。
きっと見ているはずなど無いと分かっているのに、俺は少し、焦った。
「九神さん、お疲れ様。」
ポンと慣れた仕草で肩を叩くのは、ここ2ヶ月ほどですっかり見慣れた奴、なのだが、今は見慣れた俺が見てもすぐには分からないくらいに変装したサオリだった。
「今日の変装もバッチリね。」
「まあな。お前も歩きって珍しいな。…お疲れさん。」
あの後、諦めたかに見えた司会者だったが、今度はサオリに矛先が向けられた。結局番組の収録が終わるその時までことあるごとにそれとなく話を振られ続け、俺たちは苛々するあまりに付け入る隙を与えないようにするために、いつも以上に疲労する羽目になった。
「ホンット疲れたわ。…全く、あの司会者、思わず首絞めてやろうかと思った。」
ぼそっと呟かれた言葉に、俺は苦笑する。
「おいおい、一応清純派で通してるんだろ?聞かれないように気をつけろよ。」
なんて宥めるような言葉をかけてはみたが、俺も似たようなことを思っていたのだから、本当のところ彼女のことは言えない。
「まあね。でもお互いこれだけ別人になってたら、絶対分からないって。」
カラカラと笑いながら、サオリは俺の肩をばしりと叩いた。
知名度を上げて仕事を取る、という目的をほぼ果たした今でも、俺とサオリとの関係はまだ続いていた。お互いの生理的な欲求を満たす、時折の肉体関係。けれどそれは恋愛感情ではなく、敢えて言うなら友情、それも戦友という表現が一番近い気がする感情だった。何の気兼ねも無く、引き摺る気持ちを吐露できる唯一の存在。互いに、互いの存在に随分助けられていると思う。けれど一応関係を否定しているわけだから、人目のある場所では決して関係を匂わせたりしないのは二人の間の暗黙のルールだった。
「ところで、ホントにイブの予定はどうなってるの?」
しばらく歩いた後、サオリはそう尋ねてきた。最近は、目的を果たすにしては少々大きくなりすぎた噂を鎮めるために、囮のやつが俺たちの振りをして車でマンションまで帰る、ということを事務所が行っている。そして俺は変装して、スタッフや一般人の振りをして堂々と正面玄関から帰るわけだ。コソコソしていた方が余計に厄介なことになる。
事務所側は、俺たちの関係については特に何も言ってこない。ただ、本当に結婚する、とか関係を持っていることに正当な理由が無い限りは、スキャンダルが大きくなりすぎるのは人気に悪影響が出るため、それに対処しているだけだ。
…本当に、勝手なもんだ。一般人でなければいい、だなどと。
「夕方まではマジで仕事。夜はこれもほんとに予定無し。ったく、寂しいクリスマスだぜ。」
ため息と共にそう言って、俺は去年のクリスマスを思い出した。…あの時は明里と一緒に過ごしたっけ。まだ偽りの関係だった時だ。あの時渡したブレスレットを見て、彼女を傷つけたことを後から何度後悔しただろう。けれど偽りの関係だった時でもいいから、今ではあの頃に戻りたいと思う。
ポケットの中に突っ込んだ手で、いつも持ち歩いているあのバングルを、痛いほどに握り締めた。「そう。じゃ、仕事が終わったらここに来てよ。」
軽い口調でそう言ってサオリが差し出したのは
「……ホテル、ブリアンニ…。」
俺にとっては忘れられないホテルの名前が書かれたカードだった。
「この日のディナーはホント予約取れないんだから、すごいプレミアカードよ。イブはこれ持ってなきゃホテルの玄関さえ通れないし持ち物チェックもあるから、パパラッチの心配も無いわ。カード自体も、持ってると幸福が訪れるっていうジンクス付きで、余計に予約が難しくなってるって知ってた?」
はい、と言って俺の手にカードを握らせる。
「イブにこのレストランで夜景を見ながらプロポーズすると必ず成功する…ま、100%なんてあり得ないけどそんなことも言われてるらしいわ。もう、取るの大変だったらしいわよー。」
カードの価値について延々と喋り続けるサオリの言葉を頭の隅で聞きながら、俺は別のことを考えていた。このホテルには、思い出がある。あいつと一緒に過ごした、大切な記憶。別れてから、このホテルに行ったことはない。近づくこともしなかった。
……思い出してしまうから。明里のことを思い出して、苦しくて、切なくて、胸が押しつぶされそうになってしまうことが分かっていたから。
会いたい。
あいつに、明里に、会いたい。
会いたい。
会いたい。
誰か、なんて嘘だ。
本当は、今年も、来年も再来年もその先もずっと、クリスマスはお前としか過ごしたくないんだ。
「っ、俺やっぱ
「必ず来て」
行けない、と続けようとした言葉を、サオリの強い口調が遮った。
「…………」
「必ず。…約束よ」
そう静かに言って、背を向けたサオリの後姿を、俺は見えなくなるまでずっと見つめていた。
さっきまで軽い口調で話していた人物と同じとは思えないくらい真剣な眼差しが、脳裏に焼きついている。
指先が白くなるほどに握り締めていたことに気づいて開くと、カードを握った手は、いつの間にかじっとりと汗をかいていた。
大きく分かれた道の前で佇んでいた俺に、行き先を示してくれたのは果たして誰だったのだろう。
それはクリスマスの、3日前のこと。
踏み出した一歩が、一体どこに繋がっているのか。
この時の俺には、その道の先など何も見えていなかった。
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