失恋は新しい恋で癒せというけれど。
できなかったの、私には。
片道切符 八
3杯目が冷める頃、私と彼は並んで歩くようになった。
冬は、人恋しい季節、と言われる。私の心もそろそろ寂しさに音をあげ始め、ふと揺れる掌を見つめてしまうこともあるけれど、時折雪が舞う中でも、二人の距離はまだ30センチから縮まることはなかった。
そして…冬は、夏よりも、秋よりも、もう遠いあの人を思い出させた。
「作上、寒くないか?」
「あ、うん、寒いけど大丈夫。今日はホッカイロも持ってきたし。しもやけは、この前よりマシになったの。」
ほら、と言って手袋から手を出して見せた。去年よりもずっと手入れを怠った手は、ひどいしもやけとあかぎれに悩まされている。前の冬には、あの人の綺麗な指と繋ぐ手だと思うと、カサカサの手が耐えられなくて、バイトの後にせっせとクリームを塗ったことを思い出す。弁当屋で週5で働く今は、爪を伸ばすことも出来ず、マニキュアを塗る暇もない。
けれど本当は、あの人に見せられないならすべてが意味のないことだと、心のどこかで分かっているのかもしれない。街はすっかりクリスマスムードに染まっている。キリスト教を信仰しているわけでもないのに、こうして祭りごとのときだけ騒ぎ立てるのは、皆きっかけを求めているからだろう。この時期になると街で見かけるカップルの数が増えるのは、自分の気のせいではないはずだ。そんなことをして何になるのかと明里は思うのだが、冬が近づくと合コンの数も増えるのだと薫が言っていたのを思い出す。一時的な恋人でも、いないよりマシ、ということなのか。やはり人は人のぬくもりがなければ、心安らかにすごすことはできないのだろうか。
どこか冷めた瞳で街行くカップルを見ながら、けれど自分も傍から見ればそんなカップルに見えるかもしれないということを思い出した。そんなつもりはない、などとは今更言えそうにもないのだから。
「…人が多いな。」
うんざりしたように樫宮が言う。明里もその言葉に頷かずにはいられない。その人ごみに、今まで保たれていた30センチの距離が、ほんの少し縮まったような気がした。
「もうすぐクリスマスだもの。仕方がないわ。」
そう言いながら苦笑する。独り身の自分には関係ないイベントだ。駅前は大きなツリーとたくさんの電飾で彩られて、ひとつのテーマパークのような様子である。クリスマス特有のふわふわとした雰囲気は本当は嫌いではないのだけれど、人の温もりを知ったあとでは、恋しさを募らせるだけで。
彼はまだ、何も言わない。
もう少し、もう少し。…お願い、せめて私の心が落ち着くまで。
自分勝手な願いを抱いて、明里はもう何もない左腕を、そっと撫でた。
「ただいまー。」
声をかけて居間に入ると、寝転んでテレビを見ていた和希が慌ててテレビを消した。
「お、おかえり!早かったな。」
「…そう?いつも通りだと思うけど。」
和希がなぜ急いでテレビを消したのか。なぜこんなにも私に対して申し訳なさそうな顔をしているのか。隠せているつもりかもしれないが、分かってしまった。少し胸が苦しくなって、申し訳なくなって、目を伏せた。
「……部屋に戻るね。そんなに…気を使わなくていいから。好きなテレビ見ていいわよ。」
そう言って背を向ける。後ろから、おい、とかそんなんじゃないって、とかいう声が追ってきたけれど、逃げるように自分の部屋に滑り込んだ。
床に転がっている毛糸玉と編み棒を拾い上げて、目を数える。そうしてもう慣れた動作を繰り返しながら、少しずつ形作られていくそれを見つめた。
和希が見ていたのは、きっとワイドショーだろう。…私がいる時には遠慮して見ることができないから。
今どのワイドショーを見ても、やっているニュースは決まっている。外にいても街頭のテレビや雑誌の表紙なんかがいたるところで目に飛び込んできて、決して逃れることなどできないのだから、家の中でだけ守られていたって変わりはしないのに、と思った。美しい女優と彼のツーショット写真を見たとき、頭を殴られるような衝撃を受けた。
痛くて苦しくて、息ができなくなって。過ぎていった時間が、少しは気持ちを風化させてくれたと思っていたけれど、それは間違いなんだと気がついた。
けれどその一方で、頭の奥の冷静な自分が『これが本来あるべき姿なんだ』と冷めた瞳で認めるのも感じていた。
…こうして、あなたは私を忘れていくのですね。
それは確かに覚悟していたことであったはずなのに、大きな威力を持って明里の心を打ちのめした。
分かっていたのに。私ももう踏み出しているはずなのに。
あなたがずっと私を想っていてくれたら…。私が思っているように、特別だと。いつまでもいつまでも心の特別な部分にそっとしまっておいてもらえたらと。
そう思ってしまう卑怯な私を許してください。
連日ワイドショーに取り上げられている二人は、一応交際を否定しているようだ。どうしても耳に入る情報だから、明里もそれくらいは知っているが、詳しい話は知らない。
けれど、きっと嘘だろう。まだ付き合っていた頃、おしゃべり好きな要がしゃべった芸能界の裏話は、明里の想像を覆すのに十分なものだった。今回だって、きっと建前の否定に過ぎないに決まっている。
否定を、そのまま信じていたかった。
いつかあなたがあなたにふさわしい美しい人と並んで歩く日が来ても、祝福できるはずだったのに。私の想いがいつか思い出に変わって、輝いていたあの日々を穏やかに思い出せるようになったときなら。…今はまだ、早過ぎたの。
編んでいるのは青味の強い紫の毛糸。
…こんな色、樫宮君には似合わないと分かっているのに。編みかけのマフラーを抱きしめる。もう受け取る人のいない、それを。
「…っふ、ぅ…ぁあ…」
どうして、どうして私は選んでしまったの。
穏やかで優しい恋ではなく、身を焦がすばかりの悲しい恋を。