どうして人は大切なものをたくさん持てないのだろう。どうして俺は、彼女の手を離さなければならなかったのだろう。
片道切符 壱
「カッーート!はーい、お疲れ様!炎樹よかったよ。」
「九神さんお疲れ様です!」
「ありがとうございました!お疲れ様です。」
「炎樹、また明日ね〜。」
「おう、またな。」
監督や共演者といつも通り挨拶を交わして、未だ熱気溢れるスタジオから出る。
「炎樹、お疲れ様。このあとは19時からラジオ番組出演、21時からポスターの撮影よ。それから明日は7時から次のシーンの撮影だから忘れないでね。」
控え室に向かう炎樹に足早に近寄り、これからの予定を淀みなく言い切ったのはマネージャーの鈴原だ。
「……ああ、分かってる。」
そう一言だけ呟いてドアを開け、部屋の中に滑り込む。1分1秒でも早く。
もう一人になれるのはここしかないから。自分がこの世界を忘れていられるのは僅かばかりの休息時間と、眠っている時だけだから。
自分以外は誰もいない広い控え室で、黒のソファーにどさりと身体を投げ出す。肺の中の空気を外に押し出しながら仰向けに寝転がると、蛍光灯の光がやけに目を射て。ゆっくりと目を閉じた。
もう5月。暖かい日差しが見られるはずの春だというのに、あの日からずっと雨が降っていた。それは彼女の心を写しているのだろうか。それなら少し嬉しいかもしれない。自分と同じ気持ちでいてくれるということだから。………本当は、そう思いたいだけかもしれないけれど。
彼女がいなくなっても時間は流れていて、自分は彼女のいない世界で生きている。自分が生きる世界は、中途半端で生き残れるようなところじゃないということくらいとっくに知っていた。そしてそれを選んでしまった自分。周りの声がうるさかった、そんなのは言い訳だ。
「くそっ…。なんでだよ…っ。」
どうすることもできなかった力ない自分。やり場のない怒りに、悔しさに胸が痛い。
目を覆った腕の下で、身体から水分が失われていく。皮肉にも、酷く乾いていく体と心が自分がまだ生きているということを教えてくれた。
彼女のいない世界は、以前感じていた輝きをすっかり失っていて。思い出の中の彼女だけが鮮やかで。
もう自分の居るこの場所は、自分を生かしてはくれないだろうと本能で悟った。
それでもやがて雨は上がり、暖かい空気が日常を包み込む。そうしてまたじめじめした梅雨の季節がやってこようとしている。
彼女に別れを知らせた記者会見の日から2ヶ月が過ぎた。
相変わらず食事もまともに取れないようなスケジュールに忙殺されている。けれどそれで良かったのかもしれない。一人になると彼女のことを考えるばかりでおかしくなりそうだったから。
けれど良い方向に変わったこともある。
演技に対する気持ちが。今までも恋を演じることが多かったけれどそれとは全く違う。自分でも分かるんだ。演じていて堪え切れない思いがあることに。
ああ、今までの演技は上辺だけ。偽者だった、少しも分かっていなかった。
通りすぎる人ごみの中に彼女を探してしまう気持ち。メールが返信されるまでのもどかしさ。電話で彼女の声が聞こえるまでの動悸。手を繋ぐ二人を見て彼女に会いたくなる気持ち。ちょっとした瞬間に思い出す彼女の笑顔。自分が見た綺麗なものを見せてあげたくなる気持ち。他の男と一緒に居る時の苦しさ。
そして自分が、自分こそが幸せにしたいという願い。
彼女と居てようやく理解できた感情が、俺をこの世界で輝かせる。トップに押し上げていく。
「炎樹、最近演技が変わったね。なんと言うかこう…胸に響くんだよね。」
眼鏡を押し上げながら少し興奮した様子で言う監督に、是非主役をと頼み込まれて承諾したドラマ。現在最高視聴率31%を記録している。
内容は少し昔の話で、皮肉なことに愛し合っているのに身分の差によって引き裂かれる二人だった。俺が演じるのは富豪の家に生まれた次男。幼い頃から側にいた女中の娘と愛し合っていたが、互いに思いを伝え合う前に引き離され、男は家柄のある女と結婚させられる。しかし間も無く戦争が始まり、家が没落して…という流れだ。まだ最後までの台本は上がっていないからラストがどうなるかは俺も知らない。
監督に向かって少し挑戦的に笑っておく。胸に響く?そりゃそうだろうよ。実際俺もその気持ちを体験している真っ最中なんだからな。しかもほとんど演技じゃなくて本気でやってるよ、女が明里だと思ってな。そう悪態をつきそうな気持ちをなんとか抑えて、とりあえず「ありがとうございます。」と口を動かした。
スタッフに指示を出し始めた監督から離れてスタジオの隅にある木で出来た貧相な椅子に座った。そして今回撮る分の台本に再び視線を落として文字を追う。
「短い夢だった…か。」
女のセリフを見て胸が軋む。以前に俺が彼女に言わせた言葉と似ている。俺はもう彼女を二度も裏切っちまったんだな。今なら男が幼馴染の女をどれほどに求めていたのか分かる。離れてから余計に募る愛しさも。
「くーがーみーさんっ!」
今では本名よりも馴染んでしまった名前を呼ばれて視線を向けると、立派な屋敷のセットの間で着物を着た女が俺に向かって手を振っていた。ドラマの女、幼馴染の役をする女優だ。なんだっけな、抱きたい女NO1だったか。下らない雑誌の特集で俺と対になるようにNO1に選ばれていた女。まあ確かに造作は整っている。演技もなかなかのものだ。しかし。
はあ、と気付かれないように心の中でため息をついた。やっかいなことに俺に気があるらしい。以前なら誘いにも乗ったかもしれない。が、今では何の欲も湧いてこない。
どこがどうなったか知らないが俺の体はたった一人にしか反応しないように組織が組み替えられてしまったらしい、いつの間にか。目も耳も鼻も腕も、全てが明里に向かっている。彼女を探している。もう、一回無くして分かったと思ってたんだけどなあ。過ごした時間だけ、深まった思いの分だけ後遺症も重かった。
ああ、酷く乾くんだ、お前がいないと。
俺の渇きを癒せるのはやっぱりお前だけなんだよ。