ぐらり、と視界が揺らいで。緑と赤がぐちゃぐちゃに入り混じって。
急速に暗転していく世界に、ああ、ようやく、と思った。
片道切符 参
「かなめさん。」と寝起き特有の少し舌足らずな口調で呼ばれるのが好きだった。
さらさらと指の間をすべる髪の毛や、桜色の少し小さな爪や、痕がはっきり残る真っ白な肌や、優しい日なたみたいな香りも好きだった。
ふうっと意識が浮上する。
ひどく幸せな気持ちがして、目覚めたくないと心は叫んでいるのに目蓋は言うことを聞かなかった。そうして目覚めて捕らえたのは彼女の笑顔でも寝顔でも髪でも手でもなく。
白い天井と、無機質な蛍光灯の灯りだった。
鉛になったのではないかと思うような重い体を持ち上げると、自分の控え室で。閑散とした光景が虚しさを煽った。
とても幸せな夢を見ていたように思うのに、起きたとたんにそれは霧散してしまって。どんな夢だったかちっとも思い出せなかった。そして自分にとって幸せは彼女の傍にしかないと分かっているから、現実が余計に悲しかった。
カチャリ、とノブの回る音がして、続いて「起きたのね。」と聞きなれた声が聞こえてきた。
緩慢な動きでそちらに視線を向けると鈴原だった。
「睡眠不足と疲労、軽い栄養失調ですって。…私も仕事を入れすぎたと反省しているけれど、どうして倒れるほどになっていたなら先に言ってくれなかったの?」
そう聞いて、ようやく自分が収録中に倒れたことを思い出した。生放送じゃなくてよかった。それなら今頃大騒動になっているだろうから。
睡眠不足、疲労、栄養失調。全く自覚は無かった。というよりも感知することが出来なかった。きっともう麻痺してしまっていたのだろう。悲しみに。虚しさに。
倒れたことも自分がそれほど酷い体調であったことも別にどうでもよかったし、何も思わなかった。ただ、『ああ、やっぱりな。』とそれだけだった。
一瞬見ただけで視線を戻し、一言も発さない炎樹を見て、鈴原はふう、と溜息をついた。
のべつ幕なしに話し、バカなことをやり。そんな九神炎樹はもう居なかった。存在するのはカメラの前だけだ。そんな変化をもちろん鈴原は理解していたし、その理由も分かっていた。
彼女から引き離したのも事務所だけではない。自分もなんだと。
最初はすぐに忘れると思っていた。炎樹があれほどに執着するのは初めてだったけれど、以前は去るもの追わず、飽きっぽい性格をしている炎樹ならすぐに忘れてしまうだろうと。
でも違っていた。
最近これで本当によかったのだろうかと考える。確かに炎樹の演技はよくなったし、他の問題行動も無くなった。けれど炎樹自身は?カメラの前では以前と変わらないが、一人になるととたんに別人のようになる。今回倒れたことで分かったが、もう心も体もボロボロなんだろう。
「……とにかく、これからの仕事を調整して休みを多くしたから、ゆっくり休みなさい。」
そう言って1週間のスケジュールを渡された。ざっと見てみると確かにかなり減っている。これだけ時期が迫った状態で仕事をキャンセルするのは大変だっただろう。
「……サンキュ。」
以前なら礼など言わなかった。けれど自分も色んな痛みを知り、苦しさを知ったから。
顔は見なかったから分からなかったが、少し息を呑む気配がして。そのままカツ、コツとヒールの音を響かせて鈴原は出て行った。
再び寝かされていたソファーに倒れこんで、曇り一つ無く磨かれているガラスのテーブルの上に置かれた菓子をぼんやりと見つめながら、考えた。倒れた時、何の収録をしていたんだっけ。ああ、例のドラマだったっけ。
今日取るはずだったシーンは、最終回の一つ前の回。俺が演じる男は戦争から生きて帰り、財産も何もかも失った家に戻る。そうしてそこで母親に、見栄や体裁のためにお前の人生をだめにして本当にすまなかったと謝られ、今更ながら好きだった女と一緒になってもいいなどと告げられる。俺ならふざけんな、と思うところだが、男はそれに感謝し、女を探しに出る。けれど女は過酷な労働と深い悲しみのせいですでに死の床にあり…。
全てが遅すぎた。
はあ、と息をついて仰向けに寝転がる。睡眠不足の体はすぐに眠りに落ちようとするが、冴え冴えとした意識がそれを妨げていた。
1ヶ月前の時点では上がっていなかった台本も全て届いた。俺が無意識のうちに求めていた救いはそこには無くて。この話は結局悲恋で終わるらしい。それが涙を誘っていいんだと。
もう死を待つばかりの女の元にたどり着いた男は、二人だけで誓いを交わす。きっと次の世で出会うときには、ずっと二人一緒に幸せでいようと。
もっと早くに自分の好きに生きていられたら。この二人もきっと変わっていたのだろう。
けれど全てを捨てて何か一つを手に入れようとするには途方もない勇気が必要なのだ。リスクが大きすぎるから。人はそれで多くを見失う。
分かっている。そんなことは俺だって。
あの時、誰の反対があろうとも明里を取るべきだったのかもしれない。けれどそれだけの大きな決断ができる人間はそう多くない。自分の環境が悲惨なものであれば、相手だって悲惨な状況に巻き込むかもしれないのだから。
苦しんでなければいい。けれど忘れないで欲しい。複雑な相反する思いが俺の心を苛んで。
…俺のことを、憎んでいるだろうか。
疲弊した心は次第に眠りに救いを求め始めた。
せめて、夢の中では幸せに。