時間が経つとやっぱり過去は美化されていくのかな。

今だってこれまでの私の人生の中では結構充実しているはずなのに、あの頃が輝いて思えて仕方ない。

 

 

片道切符 四

 

 

お昼時が過ぎて、お客さんの足も途絶えた。こじんまりとした店内には、自分とおかみさんと他のパートの人が一人。旦那さんを早くに亡くしたおかみさんが切り盛りするこの小さな弁当屋には、以前から常連の人が多い。

一つ伸びをして店内の清掃を始める。くしゃりと丸まっているレシートを拾ったり、カウンターを拭いたり、店先を掃いたりするくらいの簡単なもの。これが済めば今日は終わりだ。

「明里ちゃん、今日は暑いから水撒いておいてもらえる?」

「あ、はい。分かりました。」

都内とはいえ都心から少し離れたところにあるこのお店は、なんだか古き良き時代というのか、昔の雰囲気が漂っていてどこかホッとするような気がしている。店の横にある水道からホースを引いてきて蛇口をひねるとシャアアと勢いよく水が出始めた。

焼けたコンクリートに当たった最初の水滴はあっという間に蒸発してしまった。周りに注意して水を撒いていく。ほんの2〜3分外に居るだけなのにじっとりと滲んでくる汗を手の甲でぐいっとぬぐう。アスファルトからはゆらりゆらりと蜃気楼が立ち上っていた。
もうすっかり夏だ。水のおかげか少し涼しい風がそよりと通り過ぎ、ホースの先から出る水が弧を描いて、そこに虹が見える。子どもの頃庭に水を撒きながら、虹を作って遊んだっけ。懐かしいな。キラキラと輝いて飛び散る水滴が、次第にしっとりとアスファルトを濡らしていく。
ミンミンとかジィジィとか、賑やかに夏を生きる蝉の声がやかましいほどに辺りに響いている。蝉の声を聞くと余計に暑く感じるのはなぜなんだろう。

一通り水を撒き終わると、キュッという音を立てて水を止めてホースを元に戻す。くるくると巻いて元のように蛇口に引っ掛けてもう一度額をぬぐうと、ぽたりと汗が落ちた。

 

「…作上?」

懐かしい声がして振り返ると、懐かしい人が立っていた。

「カズマくん!?」

「…ふっ。もうカズマは引退したよ。」

顎に手を当てて少し考えるような仕草は以前のままで。けれど少し困ったように笑うからか、以前より柔らかく感じた。

「あ、そうだったっけ。…それよりどうしたの?」

「ああ、大学のキャンパスがこの近くなんだよ。今年から専門になったからキャンパスが変わってな。」

「そっか。もう本業に戻ったんだね。」

「まあ、そんなところだ。お前はここでバイトか?」

樫宮の視線が明かりの背後の弁当屋に向けられる。

「うん。以前にバイトしてたんだけど、少し前から復帰したの。」

「そう…か。」

樫宮の言葉の僅かな間は、恐らく明里の事情を知っているからだろう。お互いに少しばかり苦い笑みを浮かべて、沈黙した。

 

「…樫宮くんはこれからどうするの?」

「ん?ああ、ちょうど昼飯がまだだったし、ここで買って帰るかな。」

「そう?じゃあ、中へどうぞ。」

カラリと引き戸を開けて招き入れる。店の中はクーラーが効いていて心地よい。

カウンターに回り、三角巾を被りなおす。店員モードになると気持ちがしゃきっとする。

「いらっしゃいませ。何になさいますか?」

「はは。様になってるな。じゃあ、日替わり弁当を。」

「かしこまりました。450円です。」

500円を受け取って50円玉を手に乗せる。そっと乗せたとき自分の手と比べて、やっぱり男の人なんだなあと感じた。

要と別れてからもう半年近く経つけれど、店のお客さん以外とは男の人との接触はない。自分よりはマシだけれど、樫宮の手は少し指先が荒れている。自炊とかしているのかもしれない。要はやはり芸能人だからかつるりとした肌をしていたけれど。きっと水仕事とかはしないようにしていたのだろう。

……ご飯とかちゃんと食べているのかな。何かに熱中するとほかのことを疎かにしてしまうところがあるから、少し心配だ。そういえばゴージャスに居る頃は、お弁当とか作ってあげたっけ…。いつも味気ないロケ弁ばかりだからとすごく喜んでくれて。食事を摂る時間もバラバラで不規則な生活だというから、栄養を少し勉強したりもしたなあ。

連鎖するように思い出して、そうすればそうするほどに、胸が疼く。

 

「…作上?大丈夫か。」

50円玉を乗せた後自分の手をずっと見ている明里を心配してか、樫宮が声をかけた。律儀にも手は出したままで。

「あ。ごめん。大丈夫。なんでもないよ。」

取り繕うように淡く笑う明里を、樫宮は静かに見つめていた。

 

 

「作上。今度の日曜日、暇か?」

出来上がったお弁当を白いビニール袋に入れて手渡すと、しばらく考え込んだ様子だった樫宮がそんなことを言い出した。明里はビニールの取っ手を樫宮の手にかけようとした姿勢のまま。

「え?明後日?うん、特に用事は無いけど…。」

とりあえず袋を樫宮に委ねてスケジュールを頭に描いた。最近は家とバイト先の往復ばかりで特に他に予定もない。もっと他にやるべきことを見つけたいと思ってはいるけれど、今まで特にやりたいこともなかったから、急に思いつくわけもなくて。まだ行動できずにいた。

「そうか。じゃあどこか出かけないか?たまには気分転換もいいだろう。」

彼は、あの頃とは違う優しい笑顔で尋ねた。

 

 

樫宮が少し開けた扉から、少しばかり冷えた外のぬるい空気が入り込んで、頬を撫でていった。

 

夏。私の時が少しずつ、動き始める。

 

 

 

 

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