一つの季節を命の限りと精一杯に生きる蝶や蝉は幸せなのでしょうか。

それとも穏やかな時間の流れを感じたいと望んでいるんでしょうか。

……私には、分かりません。

 

 

片道切符 六

 

 

「作上、こっちだ。」

少しばかり混みあっている店内で、手を挙げる彼を見つけた。

 

 

緩やかに涼しくなってきた季節。

日差しの下を歩いても肌が焼かれる感覚はなくなり、街も次第に落ち着きを見せ始めた。

命を燃やすような激しい季節は終わり、夕暮れの日差しのように暖かで穏やかな季節がやってこようとしている。

 

 

二人がけの席にこうして樫宮と共に座るようになったのは、夏の盛りの頃だった。

「大学は今忙しくないの?」

「ああ、まだ夏休み中だからな。卒論も順調に進んでいるし。」

「そっか。」

今まで読んでいた本にしおりを挟み、閉じる。

と同時にキャラメルマキアートが運ばれてきた。いつも明里が注文するものだ。

「樫宮くん、また頼んでおいてくれたの?ありがとう。」

「混んでいたし、そろそろ来る頃だと思ったからな。」

樫宮は気が利く男だった。ゴージャスにいた頃から知ってはいたが、仮面を被っていない状態でもこれほど優しくしてもらえると思っていなかった明里にとっては意外なことだった。

ただ二人で会ってコーヒーとキャラメルマキアートを1杯ずつ。その週にあった出来事やテレビの話題なんかをとりとめもなく話す。それは何てことのない日々だったが、確実に明里の生活を変化させ、その時間は回を重ねるごとに少しずつ長くなっていた。

この喫茶店は二人が会う決まった場所だった。週末にメール。『いつもの場所で1時に。』
いつの間にこんな曖昧な言葉が通じるようになったんだろう。けれど明里もいつも返信する。『了解です。明日、いつもの場所で。』

 

「(あの人とは、こんなに穏やかな時を過ごすことはなかったな…。)」

彼と会うときはいつも大っぴらに街を歩くことはできなかった。ゴージャスでの撮影が終わった後のバー、ホテル、夜の公園…。マスコミに追われて走ることもあった。一緒にいられる時間はとても短くて、途中で彼が呼び出されていってしまうことだって少なくなかった。

「(優しい時間じゃなかったのに。)」

でも。

忙しいのに1日に何通もメールをくれた。眠る時間を削っても、電話してくれた。これ以上は無いというくらい愛を囁き、全身で明里を愛してくれた。

「(真夏みたいだった。夏しか生きられない蝉みたいな。)」

そうして燃えるような恋はあっという間に終わりを告げ、明里だけが死んでしまった蝉の抜け殻を大切に抱いて生きている。

 

樫宮は何も言わない。けれど明里も気付いていた。自惚れているわけじゃない。優しい眼差しや態度や明里を支えてくれる言葉が、彼の気持ちを言葉よりも雄弁に物語っていた。

「(ごめんなさい、私、あなたを利用している。あなたの優しさに甘えている。)」

 

 

「すいません、コーヒーのブラック、追加で。」

少し思考に沈んでいたようだった。気付けば樫宮のカップは空になり、視線を落とすと自分が持つカップも真白な底が見え始めていた。

「作上、お前も頼むか。」

2杯目を、一緒に飲むようになったのね。

「……うん。お願いします。」

そう言って、すっかりぬるくなった最後の一口を飲み干した。

「じゃあ、キャラメルマキアートもお願いします。」

樫宮はウエイトレスにそう告げ、再び本を開いた。抜き取られたしおりには美しい夕焼けが描かれている。

静かな時間が落ちる。何を話すのでもなく二人時を過ごす。

 

 

樫宮が本を読み始めたのを確認して、明里は窓の外を見上げた。通りに面したこの席は壁がガラス張りになっていて、外がよく見える。

 

 

 

ここからは看板が見えるの。

大きな、とても大きな看板。とても手の届かないところ。

それにあなたが気付いていないわけないわよね。

それでもいつまでもここを指定するあなたは優しいのでしょうか、それとも残酷なのでしょうか。

そしていつもここへ来て彼を見上げる、私は。

 

 

 



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